<< 2009年10月
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

「答弁メモ」作れと言われても…無理でしょ ニュース記事に関連したブログ

2009/10/27 21:03

 

臨時国会が始まった。52分間にわたる鳩山首相の所信表明演説は、一言で言えば鳩山カラーを前面に押し出し、わかりやすさを強調した「友愛演説」であった。遊説先で出会った人々とのエピソードを織り交ぜるなど、全体として、国民に対して語りかけようとする意図が感じられた。

 

理念やビジョンが中心だったためか、報道関係には具体性に欠ける、抽象的と不評なようだが、具体的な政策に関してはもともとマニフェストがあるのだから、わざわざ所信表明演説で繰り返すまでもないだろう。少なくとも、民主党への対決姿勢を鮮明にした麻生前首相の所信表明演説よりははるかにましだと言わなくてはならない。

 

さて、こうしてスタートした臨時国会だが、それに先駆けて、「答弁メモ」の作成指示が内閣総務官室名で各省庁に出されていたことが報道されている。臨時国会に向け、首相や官房長官が行う答弁書づくりへの協力を指示したもののようだが、これは今の鳩山体制の中では官僚にとって荷の重い作業である。

 

そもそも各省庁の政策づくりは、政務三役が中心となっており、ここに官僚は実質的に関与していない。答弁メモを作りたくても作れないのである。鳩山首相も平野官房長官も、報道陣の取材に対して、自分から指示していないと答えているが、だとしたら指示したのは誰なのだろうか。

 

「答弁メモ」の作成指示書を出した内閣総務官室は、内閣の事務部局として国会との連絡調整にあたる機関で、官職は内閣総務官1名を省庁の局長級幹部の中から任命する。指示書の内容は、自公政権時代に出されていた内容とほぼ同じというらしいから、答弁メモの作成指示を慣例通りに機械的に出したのだろうか。

 

鳩山首相の目指す「脱官僚依存」は、こうした官僚組織内部に蓄積された、慣例主義、前例主義との戦いでもある。現段階では官僚をどの程度関わらせるかとか、政務官をもっと増やさなくては対応できないとか、制度上の問題がまだ解決できていないように見受けられる。とりあえずは、臨時国会を通じて様々な課題が噴出するかもしれないが、一つ一つ対処しながら体制を固めていくしかないだろう。

 

ただ一つだけ鳩山内閣に要求するとすれば、「過去には戻るな」ということである。長期に渡った自民党政権の中で作られてきた一見合理的とも思えるしくみでも、それが政と官の馴れ合いの構図の中に作られてきたものであれば、そこから一日も早く脱する見通しをつけることが肝心だ。

 

これまでのやり方の中に身を沈めれば、確かに政治家は楽ちんかもしれない。官僚に任せていた「質問取り」にしても、平野官房長官は「理想は政務官らが質問取りすること」と言っていたが、そんなものは理想でもなんでもない。質問する側が事前通告の段階で、詳細に通告すればいいだけであり、もともと官僚が質問取りに出向く必要などないのである。

 

政治主導の政治を作ろうとしている民主党だが、それは与党だけがその努力をするのではない。野党もまた、官僚との馴れ合いの中に依存を深めてはいなかったか。今度の臨時国会は、そうした部分からも見直していくよい機会であると言える。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

詐欺と言うより乾政治部長の理解不足 ニュース記事に関連したブログ

2009/10/25 00:03

 

政治部長、乾正人氏がまたやってくれた。『「マニフェスト詐欺」第1号』と題した記事は、日本郵政の新社長に元大蔵省事務次官の斎藤次郎氏を抜擢したのは公約違反だと言うものである。しかし、マニフェストのどこを読んでも、官僚OBを完全排除するとまでは書いていない。

 

要するに乾氏は、斎藤次郎氏の社長就任が「天下り」であり、天下り禁止を明示したマニフェストに反するのではないかと言いたいらしい。だとすれば、乾氏は「天下り」や「渡り」の問題の本質を理解していないということになる。

 

天下り」で問題となるのは、官庁が退職する官僚OBのために、次の職場を「あっせん」する行為であり、それが天下り先の公益法人への便宜供与につながる場合が多いから「あっせん禁止」するというものである。官僚OBだから全て採用してはならない、というものではない。まして独立採算で運営されている日本郵政から受け取る給与には税金は関係が無いのだ。

 

斎藤次郎氏の抜擢を判断したのは、官僚組織ではなく政治であり、日本郵政の大株主である政府の判断である。当然ながら、政府の進めようとしている郵政民営化の見直しについて見解が一致し、それを遂行できる能力のある人間が社長に選ばれる。それがたまたま斎藤次郎氏だったというだけのことだ。財界の中から手を挙げる人物がいるとか、西川前社長が後任を推挙して退任したとかなら別の人選もありえただろう。

 

乾氏は、日本銀行総裁人事について、民主党が元財務省事務次官の武藤氏の就任に反対し、潰したことも槍玉に挙げている。乾氏は「官僚OBだからとの理由だけで」と書いているが、民主党の反対した理由は「財金分離」の原則を主張したのである。官僚OBだからという理由だけで反対したのではない。そのことに関して日銀総裁人事に混乱をもたらしたのは民主党にも非はあるとしても、それと今回の日本郵政人事とは関係がない。

 

政治部の部長ともあろう人間が、「天下り」の意味もわからず、武藤氏の総裁人事に民主党が反対した理由も理解していなかったというのは一体どうしたことだろうか。そればかりではない。いつから乾氏は「マニフェスト至上主義者」になったのだろうか。

 

もちろん、マニフェスト通りに実行しないと許さないぞ、という視点から、産経新聞が論陣を張ろうと言うのなら、それはそれでしっかりやってくれと言いたいところであるが、せめて重箱の隅を突っつくような情けない論評だけは、今回限りでご遠慮願いたいものだ。他の記者がまねしたら産経新聞も困るだろう。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(5)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

大島はまだ与党感覚なのか? ニュース記事に関連したブログ

2009/10/20 16:48

 

自民党の大島幹事長が、民主党マニフェストに盛り込まれた公約を「絵に描いたもち」と批判したようだが、現実に政権を担っているのは民主党であって自民党ではない。選挙前にはどんな公約でも「絵に描いたもち」に過ぎないが、それを本物の餅に変えるには「権力」が必要不可欠だ。

 

政権をとった今の民主党は餅をつくための材料を買うこともでき、作るための設備も準備できる立場にある。それに対して、「絵に描いたもち」しか提供することができないのは自民党だ。政権を失うというのはそういうことなのである。

 

政権を失った自民党が、政権をとり、予算の使い方を掌握してしまった民主党に対して、「絵に描いたもち」と批判するのは、未だに自分達の置かれている境遇について認識できていないことを意味する。何を言おうと犬の遠吠えにしかならないのだ。

 

野党の立場でできることは本当に限られている。国会が始まれば、嫌でもそれを認識しなくてはならないだろう。なぜこれまでの野党が「牛歩」などという失笑を買うような抵抗しかできなかったのか、身をもって知ることになるだろう。

 

どんなに立派な政策を並べても、政権をとれなければそれは全て「絵に描いたもち」なのである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

野田毅はいつから政局通になった? ニュース記事に関連したブログ

2009/10/19 01:01

 

元保守党党首で、郵政選挙では反対から一転支持にまわって党公認を拾った野田毅が、産経新聞の取材に対し、「鳩山内閣は1年持たない」と述べている。どこが政策通なのかは知らないが、少なくとも政局通とはとても言えない野田毅の言うことだ。

 

鳩山内閣が1年で終わるためには、参議院選挙において自民党勝利のもとで与野党が逆転し、再び「ねじれ国会」に持ち込めるか否かにある。すでに公明党が自民党との共闘関係に冷ややかな態度を示しているなかで、自民党の議席増は至難だろう。ただし、民主党の方でも社民党が連立を離脱し、自民党にくっついたなら多少は自民党にも勝ち目は出てくるかもしれない。

 

ともあれ、野田の言いたいのは、これから鳩山内閣で、一層の景気後退と雇用不安が増していくということだろう。理由として野田は「子ども手当」が雇用対策にならないと述べていたが、そもそも「子ども手当」は雇用対策ではなく、少子化対策である。直接給付によって消費拡大も期待できるという面もあるため、景気対策と見ることもできるが、さすがに雇用対策と誤認する人はいないだろう。そんな政策通がいたとしたら恥ずかしい。

 

基本的に雇用は公共投資を増やしたとしても一時しのぎでしかなく、持続的な雇用を産むためにはやはり景気回復に期待するしかない。現状で景気の「二番底」が懸念されているということは、自民党政権でまとめた2009年度予算と補正予算に雇用と景気を支える力がなかったということを意味する。民主党が現在まで進めた補正予算の見直し分のうち、執行停止を決めたのはその2割にあたる約3兆円に過ぎず、残り8割は執行される。そして浮いた3兆円近い財源は国庫に戻さず、雇用対策に全て使うという方針を鳩山内閣は示している。

 

何をもって雇用対策とするか。自民党のやり方は公共事業によって雇用の下支えをすると言うのだろうが、規模は縮小されたとはいえそれをずっと続けてきたはずだ。しかし公共投資は需要不足に対して何の解決にもなってこなかった。小泉政権で増えたのは、外需のみだった。米国や中国の景気に支えられ、需要を伸ばしてきたのであって、内需が活発化し景気に寄与したわけではなかった。現在の雇用不安は、外需の後退によって、製造業の不振を引き起こし、派遣社員を中心に大量の解雇者を発生させたことによる。

 

政権交代によって新しい発想が生まれた。それは公共事業などによる間接的な需要刺激策から直接給付による生活支援に切り替わったことである。少なくともこのことに対する効果は来年度予算の執行を待たなくてはならないが、そうした政策は基本的に恒久的な政策であり、短期的にも中長期的にも持続的な効果が期待できる方法である。

 

また、野田は「中長期的にはイノベーション」と述べたが、どこにそんな政策が示されていただろうか。自民党マニフェストに盛り込まれていたのは、科学技術研究に重点投資するというそれだけである。イノベーションを喚起するには高い目標が必要だ。それが鳩山が世界に公約した、温室効果ガスを2020年までに90年度比で25%削減するとした温暖化対策である。これほど高い目標を達成するには、官民あげてイノベーションを早期に実現しなくては達成できない。そうした強い意志を持たなくてはできないことなのである。

 

少なくとも麻生は「全治3年」と言った。これは景気回復に最低でも3年かかるということだ。麻生内閣で3年必要といっていたものを、鳩山内閣が1年で成し遂げられるとしたらそれこそ大変なものである。野田は、麻生内閣でさえ不可能と思えるほどのハードルを、民主党政権に対して要求し、それが実現できないから鳩山内閣は1年持たないと言う。あたかも麻生内閣のままだったら1年で景気・雇用を回復させられたと言わんばかりではないか。

 

全く、政権を失って責任のない野党になった途端にこれである。そういう意識でいるうちは、自民党が政権に復帰することはありえない。鳩山内閣の失策を待つしか他に何の見通しも持っていないということを露呈したも同然なのである。今の自民党には敵失を頼みにする以外に参議院選挙を勝ち抜く方策がない。このことを野田は深刻に捉えるべきなのである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(1)

 

関連ニュース

「核の傘」という信仰に憑かれた愚か者 ニュース記事に関連したブログ

2009/10/18 22:42

 

産経新聞の政治部編集委員、野口裕之氏の「核軍縮は日本守る道見据えてこそ」という論説は、全く非現実的すぎてお話にならない。何より、「核の傘」をまるで子どものように信じきっているあたり、「平和ボケ」ならぬ「安保ボケ」というべきか。

 

私は「核の傘」などというものは信ずるに足りないと思っている。例えば日本と中国との間に戦端が開かれ、日本に対して核兵器が先制使用された場合、中国との全面核戦争をアメリカが決断して報復してくれるなどという絵空事をどうしたら信じられるのだろうか。日米安保よりもアメリカにとっては優先されることがある。すなわちそれは「米国の国益」であって、その論理の前には日米安保条約など塵芥に過ぎない。

 

野口編集委員は、世界平和研究所副会長の佐藤謙元防衛事務次官らが中心となってまとめた「日米同盟の新段階」という提言にある「非核ニ原則」を紹介しているが、これは要するに、日本のキューバ化であって、このプランは核攻撃の抑止にすらならない。

 

1962年、キューバのカストロ政権打倒を画策し圧力を強めていたアメリカに対抗するため、ソ連はキューバに対して秘密裏に核ミサイルを供与した。これがアメリカの偵察によって明らかとなり、米ソ関係は緊迫し、核戦争一歩手前までいった。いわゆるキューバ危機である。

 

当時のキューバにはもちろん核兵器を開発する能力は一切なかったが、しかしソ連から「持ち込まれた」核ミサイルがあった。状況としては佐藤謙らが唱えた「非核ニ原則」論と同じである。日本が核兵器を作らない代わりにアメリカに持ち込ませ、その使用権を与えよという理屈は田母神元空幕僚長が主張していたものだが、1960年代のキューバ危機の再現となる可能性が非常に高いということを、どうして事務次官すら経験した人間に想定できないのかが不思議だ。

 

日本に核の持ち込みを了解したアメリカに対し、中国がどういう対応に出るかは子どもでも想像できるだろう。かつてのアメリカがそうであったように、中国を日本国内に持ち込まれた核兵器を無力化するための行動に駆り立てるだろう。また、「核が持ち込まれた」と想定する中国は、核兵器の先制使用を躊躇しないはずだ。そこまでのことはどんな馬鹿にでも想定できる。

 

「核の傘」は現段階ではあくまでもフィクションに過ぎない。核の傘を現実のものにする一つの方策が「非核二原則」論なのだろうが、それが実際に行われれば、「核の傘」は「核の雨」を呼ぶことになろう。それが理解できないのであれば、野口裕之氏は「核の傘」という信仰に憑かれた愚か者である。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(7)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

地方参政権付与は違憲ではない ニュース記事に関連したブログ

2009/10/18 21:52

 

阿比留記者が民主党が検討を進めている「永住外国人への地方参政権付与」について、渾身の反対意見を表明している。賛成・反対の意思表示は当然あっていいのだが、少々気になる一文があったので取り上げてみた。

 

憲法15条1項は公務員の選定・罷免を「国民固有の権利」と明記している。また、93条2項は「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と定める。

 

この「住民」の解釈をめぐっては議論があったが、平成7年の最高裁判決は「日本国民を意味するもの」と結論を下した。つまり、外国人への参政権付与はそもそも憲法違反だと押さえておきたい。

 

阿比留記者自身、わかっているはずのことだろうと思うが、この最高裁判決にはもう一つの憲法判断が示されている。すなわち、「法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である」 という部分だ。永住外国人への地方参政権付与に反対する議論の多くは、この部分を判決主文に関わりのない傍論だとして無視する傾向があるが、傍論であろうと、最高裁が示した憲法判断に違いは無い。
 

憲法判断が示した「国民固有の権利」とは普通選挙権を指し、ここでの「国民」は、国籍を有する日本国民と解するのは正しい。これに対し、永住外国人にも「普通選挙権」を拡大するのは憲法違反にあたるという解釈ももちろん妥当する。しかし問題は「地方参政権」の付与であって、国政に関わる参政権までに及ぶものではない。阿比留記者はわかっていながら、意図的に国政への参政権に問題を摩り替えているのである。

 

また、阿比留記者が引用した憲法93条2項は特に地方自治に関して規定されている条項である。第92条において 「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定される通り、93条2項においてあえて「住民」として あるのは、地方自治の本旨を尊重するからだ。したがって地方参政権に関しては「国民固有の権利」の解釈とは区分して考えることが妥当である。
 

整理して考えると、永住外国人に対し、国政にまで範囲を拡大した普通選挙権を認めることは憲法上認められていない。しかし、公職選挙法地方自治法において、地方公共団体が永住外国人に対し、参政権の付与を可能とする改正を行うことは憲法違反にはあたらないということになる。国が関与するのは、あくまで地方自治法ならびに公職選挙法の改正までであって、あとは地方自治の本旨に基づき、永住外国人に地方参政権を付与するかは地方が実情に応じて独自に判断すべきこととなる。

 

繰り返し指摘するが、政府が地方自治法や公職選挙法を改正すれば、地方は一律に永住外国人への地方参政権の付与が義務化されるわけではないということを理解しておく必要がある。地方自治の本旨に基づいて判断すれば、それはあくまでも条例等によって、地方が判断すべきことなのである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

金子聡の頓珍漢な原理主義論 ニュース記事に関連したブログ

2009/10/17 20:45

 

以前、金子聡氏の論説に「感動した」と書いた私だが、今回の金子氏の論説はすこぶる残念だ。『民主1年生議員は「原理主義者」か「丸暗記」か』と題して書かれた記事についてである。

 

この記事は、共同通信が民主党の衆院議員に対して実施したアンケート調査がもとになっているが、この中から新人議員の回答分析をとりあげて、マニフェストに対する姿勢を「原理主義者か」と表現している。マニフェストの実現に忠実に従おうとする姿勢そのものは別に原理主義的でもなんでもない。

 

マニフェストに盛り込まれているのは国民に対する政策上の約束であって思想的・宗教的な意味合いはない。もちろんこんなことは金子氏にだってわかっている。おそらく金子氏の使用している原理主義とは、言葉を変えれば「教条主義」と言った方が意味は通りやすい。要するに、金子氏の中では、民主党のマニフェストが「現実離れした原理原則論」であり、それに忠実に従おうとする新人議員を揶揄して「原理主義」のレッテルを貼っているのである。そうではない、と金子氏が反論するとすれば、それは原理主義という言葉の用例を間違えているか、そもそも「マニフェスト」とはいかなるものかについての基本的な理解が足りない。

 

マニフェストを実現しようするのは、国民と交わした契約だという認識に立脚するからである。国民の側にはマニフェストに盛り込まれた全ての政策について信任を与えたのではないという反論もあろうが、マニフェストを提示し政権を担うことになった民主党側には関係が無い。相手の事情がどうであろうと、マニフェストを実現すると約束して選挙を戦った以上、実現することが当然の使命である。そして選挙の洗礼を受けたマニフェストこそが、官僚組織に対抗する最大にして唯一の武器になりうるのだ。

 

例えば保険契約を例にとって考えると、事細かに書かれた約款を全て読んで契約する人はまれである。しかし「どうせ約款なんか誰も読んでないし」と保険会社がいい加減な扱いをすれば、その行為は契約不履行となり、場合によっては不法行為にあたる。これを政治におきかえれば、マニフェストの実現に対していい加減な対応をすれば、政権を容易に失うことにもなりうるだろう。マニフェストを契約上の履行義務とみなして実現に努力しようとする姿勢を、原理主義者呼ばわりするとすれば、その社会は極めてモラルの低い社会であるということになる。

 

マニフェストは本来、約束したことを実行するだけでなく、検証可能かどうかが重要である。検証可能性、という点で見れば、自民党マニフェストは期限や工程が不明瞭なために、検証不可能であって、これはマニフェストとは言えず、単なるウイッシュリストである。報道する側が、そもそもマニフェストの要件を理解しておらず、ウイッシュリストとの違いもわからないで報道しているとすれば、これは非常に深刻な問題だ。なぜなら、マニフェストの達成状況を日常的に検証し伝えることが、報道の役割にもなるからである。

 

以前ここで紹介した「マニフェスト・サイクル」の考え方を、ぜひ金子氏にも理解していただきたい。ここが理解できないと、マニフェストに基づく政権運営がどういうものなのかが理解できず、「原理主義」などという頓珍漢な論評を生むのである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

概算要求段階で財政破綻するのか? ニュース記事に関連したブログ

2009/10/16 16:18

 

民主党政権が発足後、取り掛かってきた09年度補正予算の見直し作業と、10年度予算の概算要求再提出は、従来の官僚依存の政治から、政治主導への転換を目指して行われている。部局の予算が削減される経験をこれまでしてこなかった官僚サイドが抵抗感を感じるのは当然だ。

 

政権が発足して1ヶ月。この1ヶ月をどう評価するかだが、官僚の抵抗を全て抑え込んで、政治がいきなり主導権を発揮し、言った通りのことを実行する、という理想を描いているとすれば、産経新聞の言う「政権担当能力」を発揮しえた政権など過去存在しないことになる。政権が交代しても従来のやり方を踏襲するだけのことを「政権担当能力」と認識しているのであれば、産経新聞の記者に「論説担当能力」はない。おそらく日本が政権交代したという事実すら知らないのだろう。

 

また、10年度予算に対して、各省庁が再提出した概算要求総額の95兆円がそのまま予算に反映されるわけでもない。素人でもあるまいし、概算要求が出揃った段階で財政が破綻するなどと主張するに至っては、産経新聞の記者は財政法の基本的な知識すらないのかと疑わざるを得ない。

 

これまでであれば、財務省が設定した概算要求基準(シーリング)に従って、各省庁で概算要求を行う。予め予算の枠が決まっているので、概算要求総額は事実上予算総額の枠内にほぼ納まることになる。しかし今回の概算要求にあたっては、シーリングを廃止し、子ども手当などの重点政策を盛り込んだ上で再提出させたため、概算要求額も増大したのである。順序は逆になったが、12月中に予算案としてまとめるまでに、行政刷新会議を中心に査定した結果を待たなくては財政の見通しも明確にならない。

 

そして特筆すべきは、民主党政権になって予算作成のしくみが大きく変わったという点だ。従来なら予算編成にあたり、省庁間での復活折衝などが行われるが、10年度予算編成においてそうした慣例は無くなることになる。全てにおいて「政治折衝」で決着することになるだろう。概算要求のとりまとめ段階から「政治折衝」のみで予算を組むなどということが、これまであっただろうか。予算編成はこれからが見所なのである。

 

また、産経新聞は赤字国債の設定基準を補正も含めた44兆円に置いているのではないかと指摘するのだが、予算規模ありきで作成した自民党政権当時のやり方にこだわる必要はそもそもないのであって、確定される税収不足がどれぐらいになるかで赤字国債の必要額も変わってくるのだ。麻生政権で設定されたもともとの税収見込みが甘く、水増しされたものであっただけに、財源不足をカバーするための赤字国債発行は必須の情勢である。赤字国債の発行基準という本来存在しないものにこだわりすぎているのはむしろ産経新聞の方だ。

 

果たして麻生政権下での税収見込み46兆円は、適正なものだったのか。その検証なくして、民主党が赤字国債の増発を検討しだしたことを、「公約違反」と安易に断定することができるのか。税収不足に陥ったことの責任を、政権発足1ヶ月の民主党政権に全て背負わせ、前政権の負の遺産について全く言及しない産経新聞の姿勢は…実に産経新聞らしいスタンスである。

 

そうだった、うっかりしてた。産経新聞の報道に公平な視点を求めた私が愚かだった。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

やっぱり言い出した「公約違反」 ニュース記事に関連したブログ

2009/10/15 10:56

 

マニフェストの罠」とか「マニフェストの罪」とか、マニフェストありきではなく柔軟に対応しろ、見直すべしと言っていたはずの産経新聞だったが、2010年度予算編成で赤字国債増額を視野に入れて検討を進める鳩山政権に対し、「安易な赤字国債増発は公約違反となる上、中長期的に景気に悪影響を与えかねない」と言い出した。

 

結局のところ、一旦口に出したことを多少でも曲げると「公約違反」なのである。「まあ、マニフェストどおりにいかなくても、大目にみよう」なんていう気はさらさらない。マニフェスト通りにやればやったで叩くし、やらなければやらないと叩く。これがマスコミというものだ。そして、何をやっても批判を受けるのが政権政党としての立場なのである。

 

それは自民党政権であろうと民主党政権であろうと変わらないが、諦め半分で見られていた自民党政権に対し、政権を交代したばかりで期待が大きい民主党政権にはちょっとの方針転換でもダメージは大きい。野党にまわって政権を担う責任から解放された自民党は、ここぞとばかりに「やっぱり民主党では政権は無理だ」というネガティブキャンペーンで攻め立てるだろう。

 

2009年度予算で設定した税収見込みが大幅に落ち込む。その予感は十分にあった。2008年度予算でも7兆円ほど落ち込み、補正とあわせて44兆円の赤字国債を麻生政権で組んだのである。これに対して麻生政権の説明とは、「未曾有の危機」「100年に一度の経済危機」であった。7000億もの基金のうち、6900億円で国債を買うにまかせていた自民党に、もともと景気回復など不可能だったわけだが、谷垣総裁で「再起動」した自民党に、もはや責任という二文字は頭の中には無い。

 

当初46兆円と見込んでいた税収も、40兆円を切るかもしれないという深刻な状況の中で、「公約通り赤字国債増発はしない」と突っぱるのはむしろ政権政党としては無責任だろう。党としての公約を曲げざるを得ない状況は今後も出てくる。それによる批判は当然ながら甘んじて受け、誠実に説明を果たす態度を見せることが、政権政党となった民主党の第一のステップである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(0)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース

中川昭一は保守に殉じたのではない ニュース記事に関連したブログ

2009/10/12 14:20

 

中川昭一の突然の死から、マスコミでは様々に中川昭一の人物像が語られている。彼の足跡を称える論評もあるのだが、それを見るにつけ、むしろ政治家向きではなかった中川昭一像が浮かび上がってくる。

 

日本の政治における「保守」とはいかなる概念か。アメリカのようなキリスト教に基礎を置く伝統的概念というわけでもなく、歴史の変遷を通じて一貫して変わらない思想哲学があるというわけでもない。こと日本においての「保守思想」とは、常に「左派的なもの」に対する相対概念としてしか存在してこなかったのではないか。

 

自民党の原点は保守なのだと言う。保守が日本の伝統的価値観を重要視するものであるとすれば、それは幕末以前なのか以後を指すかで大きく異なるはずであり、戦前か戦後かでも異なるはずだ。要するに保守すべき基準が明確ではないのである。現在語られる保守とは、安倍元首相の「戦後レジームからの脱却」にもある通り、「戦後民主主義」に対する相対概念としてイメージされる傾向が強いようだ。

 

もし現在の「保守」という概念軸が、戦後民主主義の反省に立つものであるとすれば、それは自民党の存在否定に等しい。戦後ほぼ一貫して日本の政治を主導してきたのは、自民党政権であって、中川昭一をはじめとする保守政治家が殊更に強調する日本人の伝統的な価値概念といったものも、高度成長を通じた物質的繁栄の中にあってほとんど失われたと言っていい。中央集権的な官僚支配体制の中で、地域の活力は失われ、中央依存の中で地域コミュニティも破壊されてきたのではなかったか。

 

中川昭一が生前、物議を醸した「核武装も選択肢として議論すべき」という主張、そして産経新聞が特に強調する靖国参拝といったことを取り出して単純に括ってしまえば、彼らの言う「保守」とは幕末の「尊皇攘夷」にこそ最も近いという印象を持つ。さすがにそこまで先鋭的とは思わないが、どうも大正をすっとばして明治政府以前に日本に歴史はなかったかのような粗雑さを感じてしまうのは否めない。

 

中川昭一は、確かに不器用で、生真面目な人物だったのだろう。しかしそれ以上に、理想家肌であったように感じる。理想が高ければ高いほど、現実とのギャップに悩み、自分自身の能力不足を嫌でも意識せざるを得なくなる。保守政治家の次代のリーダーとしての評価が高まれば高まるほど、苦悩は深くなっていく。身の丈に合わない過大な期待と、それに応えなくてはならないという焦燥感が、酒に手を伸ばさせていたとすれば、中川昭一にとって「保守でなくてはならない」という意識は強迫観念にも似た重圧だったとも言えなくは無い。

 

「保守」とは何か、何をもって「保守」とするのか。歴史と伝統とは言うが、都合のいいところを取り出したに過ぎない論理を振りかざして、いかにもわかったように語る。保守論壇の大半がこんな調子である。実際のところ、「保守」を口にする全ての人々もまた、「保守とは何か」を探し求め続けているに過ぎない。こんな曖昧な概念に全身全霊を捧げ、命を縮めた中川昭一を、保守論壇は保守思想の殉教者であるかのように称えているのだが、私は到底そんな気にはなれない。むしろ犠牲者としか思えない。

 

中川昭一の「もうろう会見」の後、玄関先で奥さんが「ガンバレ、ガンバレ」と叫んでいた声が今も耳に残っている。日本中で一番中川昭一の人となりを知っているのがこの奥さんだ。中川昭一はもっと早く気付くべきだったのである。保守の核心は、最も身近なところにあった。愛情深い家族という絆の中にこそ人々の安らぎはあるのであって、国家や政党に求めるものではないということをである。

 

「人々に安らぎを与える」。このことに政治思想の小難しい理屈は必要がない。思想的に右だろうと左だろうと、それはアプローチが異なるだけで、果たすべき目的は一つである。

カテゴリ: 政治も  > 政局    フォルダ: 指定なし

コメント(1)  |  トラックバック(0)

 

関連ニュース